昭和14年(1939年)、西表島宇多良で炭坑事業を経営していた丸三鉱業従業員一同は、その子弟などのために、「みどり学園」と称する小学校1年生から3年生までの簡易学園を設立し、大浜方英、三上とみ両氏がその教育にあたり、小学校4年生以上は西表尋常高等小学校へ通学させた。
昭和17年(1942年)丸三鉱業従業員が宇多良から浦内に移住したので「みどり学園」を閉鎖し、小学校3年生以下も西表尋常高等小学校へ通学させた。しかし、通学距離が長いうえ、通学路には橋渡し舟に頼らなけらばならない浦内川があり、歩行に骨の折れる九十九折りの山道、肘までつかるようなぬかるみ道があるという状態で、発育の充分でない低学年の通学は、実に言語に絶する苦しみがあった。
多くの児童は祖内や干立に下宿させたり、親類や知人の家に預けながら、通学させていたので、その間は事故はなかった。
昭和23年、上述の通学路の関係で不就学児童が増えたので、これらを救う目的をもって、それまで6年間閉園していた「みどり学園」という小学校1年生から3年生までの私設学園が復活設置された。4月1日から11月までは大里朝保氏、11月以降は三上とみ氏がその教育にあたった。
昭和24年9月1日、この私設学園は八重山民政府から「西表小学校浦内分校」として制定され、三上とみ氏が助教諭として発令され、ここに同学園は公立小学校として新しく発足した。この日が同校の創立記念日である。